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暦は面白い:「週の始めは日曜日」 ?

月めくりのカレンダーを見て欲しい。曜日の欄の始めは日曜日になっている? それが一般的である。ならば、1週間の始めの曜日は日曜日としていいのか。おおよそ以下の三つの説がある。
   ① 日曜日……キリスト教の安息日説
   ② 土曜日……ユダヤ教・古代バビロニア起源説
   ③ 月曜日……慣用説。働き始めの日だから。
 結論から言えば、週の始まりは日曜日からである。聖書によると、イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなったのが金曜日で、その3日後(当日も数に含む)の日曜日に予告どうり復活した。復活した日曜日が週のスタートとなったのである。日曜日が「主の日」とされ、全ての仕事を止め神と共に過ごす「安息日」と定められた。
 一方、旧約聖書の創世記によれば、キリスト教の神は天地創造終え、7日目に休んだとされる。この「7日目の日」が、安息日の日曜日と混同されて③の説が出てきたようだ。
《復活祭とクリスマス》
 神職が、クリスマスについて記述するのはいささか変であるが、日本に仏教やキリスト教、その他の宗教が入ってきても、他国の様に宗教戦争になったり一方の宗教が無くなることは無かった。日本は元々、多神教の国だ。八百万(やおよろず)の神々の国だから、他の宗教が入ってきても、八百万が少し増えたくらいの感覚であったかもしれない。いや、もっと言うなら、仏教、キリスト教、イスラム教などの世界の宗教は「教」が付く「教えの宗教」で有るのに対し、神道は自然崇拝・祖先崇拝の古代宗教からそのまま続いてきた宗教である。「教」が付く宗教、例えばキリスト教はユダヤ教からキリストが起こした宗教である。また、仏教はヒンズー教から釈迦が起こした宗教である。新たに起こす宗教は、旧来の宗教とは違うということを主張しなければならない。そこに「神学」や「教え」が生まれ、やがて考えの違いから、後世に分派活動も起こってきたのだ。
 ところが、例えば雷が怖かったり、それでいて農業に必要な雨を期待して「雷神」を祀って、千数百年続いてきた日本の在来宗教である神道には、「道」であっても、教えや神学、聖書のような聖典が無い。だから、なぜ神前で「2礼2拍手1礼」なのか、なぜ「玉串」なのか、いろいろな疑問に答える教えは伝わっていない。後世、国学者などが研究したものが論理としては唯一である。形として伝えられているのだ。全くおおらかに、のびのびとして、制約が少ない宗教である。それが日本的で、農耕民族の生活波長には良い。
 さて、話を戻す。キリスト教の復活祭(イースター)はキリストが十字架にかかり死亡した後、予告どうり復活したことを祝う日である。「春分の日の後の最初の満月の後の日曜日」と定められている。一方、クリスマスはキリストの誕生を祝う日である。もともとは、キリスト教以前の太陽神崇拝などの習慣と結び付き、4世紀頃に始まったようである。
 Christmasの略語をXmasとしたのは「X」はギリシャ語表現の頭文字が「X」(カイ)でローマ字の「X」と同じ形であったことから定着したという。いずれにしても、英語圏や日本、東南アジアでする表現で、略語であるから、公式には使われない。
《13日の金曜日》
 先の「つぶやき」で六曜制などの迷信について触れたから、これも言っておかねばなるまい。キリストが十字架に磔にされたのが「13日の金曜日」という俗説から、英語圏、ドイツ、フランスでは「不吉な日」と信じられている。しかし、キリストが磔になったのが、13日の金曜日なのか実際には特定されていないようだ。更に、イタリアでは「17日の金曜日」、スペイン語圏では「13日の火曜日」が不吉な日と信じられている。
 13日の金曜日の不吉説には次のようなものがある。
   ①キリストの最後の晩餐の人数が13人。それに磔の金曜日説が一緒になった。
   ②イブがアダムを誘惑した日、ノアの箱舟の大洪水の日、バベルの塔が崩壊した日などの俗説。
   ③北欧神話で十二神の祝宴に、招かざる客のロキが乱入(13人目)し、人気者のバルドルを殺した。
   ④13はキリスト教以前から不吉な数字とされていた。現代でもパーティなどでは、13人にならないよう気をつけるようだ。

 いずれにしても、何処の国にも迷信は根強く生きている。信じなくて良い。だが、熱心
に信じている人がいる場合には、それなりの配慮をするのが、賢い付き合いというものだ。
                  (文責:雷神社宮司 嶋田正)
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暦は面白い:「仏滅」って ?

 3月7日に、佐倉市内で千葉県同宗連の会議があった。私は神社庁の役員として参加した。それ自体は何のことは無いのだが、佐倉に行くと必ず行く菓子屋がある。「蔵六餅本舗木村屋」である。ここで菓子屋の宣伝をするのもどうかと思うが、そうしなくては気が済まないほど、ここの「蔵六餅」は銘菓中の銘菓。大好物なのだから仕方が無い。蔵六餅本舗木村屋は店のシオリによれば、銀座木村屋の第2号店として明治15年に、佐倉の歩兵第57連隊に非常食やパンを納入する御用商人として創業したとある。JR千葉駅にほど近い国道296号線沿いにも店を出している。年中無休だから、買いそびれも無い(*^_^*)
で、タップリ購入してから会議に臨んだのである。
 さて、「千葉県同宗連」を御存じではないでしょう。役員になるまで、私も知らなかったのですから。正式名称は「同和問題にとりくむ宗教教団連連帯会議」という。まぁ、同和問題を考える宗教団体の集まりのようなものである。神社庁の他に、立正佼成会や基督教、教派神道、仏教関係宗派等が参加している。
 ところで、同宗連の会議が開かれた3月7日は金曜日の友引であった。日~土曜日までを1週間とするのは「七曜制」だが、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の6種類を一定の周期で使用するのが「六曜制」である。中国から鎌倉から室町時代に伝来したと言われている。しかし、赤口以外は中国とは呼び方が変わっている。19世紀になって現在のような形になったようだ。
 明治までの暦は、多くの占いが掲載されていたが、明治政府は暦にそのような迷信や占いを載せることを禁じたため、替わって取り上げられたのがこの六曜制である。しかし、これとても根拠の無い迷信であるため、公的なカレンダーには掲載されない。平成17年に大津市役所が作成した職員手帳が六曜を載せていたため、人権団体の抗議を受け回収処分をした事例がある。
 仏滅や友引などは仏教と関わりがありそうだが、一切関係ない。釈迦は占いを禁じており、親鸞は「日の吉凶を選ぶのは良くない」と説いた。仏教では迷信・俗信一般を否定しており、特にタブー視している。釈迦が入滅した2月15日が、旧歴では必ず「仏滅」になるのは偶然に一致。神社やキリスト教をはじめ他の宗教も、六曜を否定している。
 にもかかわらず、結婚式を仏滅に挙げたり、葬式を友引に行う人は例外的で、迷信は根強く生きている。私は全く信じていませんが、慶事や仏事ではそこに参加する人のことを考えれば、一概に無視できないレジンマがある。「大人の判断」も必要になるんですねぇ。
 六曜は先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の順で廻るが、旧歴の1日の六曜は決められていて、少し変わる。
 旧暦 1・7月=先勝   2・8月=友引  3・9月=先負
    4・10月=仏滅  5・11月=大安  6・12月=赤口
 始めに話を戻す。同宗連の会議は友引に開催された。現在の会長は持ち回りで、浄土真宗本願寺派であるから、仏教界。それで、友引となった次第。これは、仏教界の常識。次期の同宗連の幹事団体は神社庁の予定だから、友引には会議を開催しない。友引は慶事、神社界では行事は避ける。会議を開くなら、仏滅か赤口あたりになるだろう。これも常識。
              (文責:雷神社宮司 嶋田正)

ユキワリソウが咲いた

ユキワリソウ

ヤブレガサ

ヒトリシズカ
絶えてしまったと思っていたユキワリソウが咲いた。カタクリと同じ場所である。この2種は、北向き斜面に自生する地域が多いようだ。雷神社のそれも、ごく僅かだが北向き斜面である。
 ヒトリシズカも咲いた。カタクリが桜の開花と同じ時期であるのに対し、ヒトリシズカは筍が出てくる頃と重なる。もっとも、これはこの辺だけか、私の思い込みなのかも知れない。とにかく、筍は美味い(*^_^*)  竹篇に「旬」と書く筍だ。不味い筈が無い。筍はハチクやネマガリダケも味わい深いが、何といっても孟宗竹の筍は圧倒的に大きく、量感や歯ごたえ共に、喰い応えがある。
孟宗竹は、硬くてモロイために竹細工には向かない。篭や竹串などほとんどの竹細工はマダケが使われている。孟宗竹は中国から入ってきたが、専ら食用で、寒冷地では生育しない。しかし、温暖地では「孟」⇒「猛」の連想があるように、猛烈に増殖する。舗装道路も持ち上げ、建物や工作物の地下をも通過して増えるし。森の中にもドンドン侵入していき、森を竹林に変えてしまう勢いがある。普通の笹や竹は、森などには入り込めない。入り込めないどころか、高く成長した樹木に日光を遮断されると、やがて枯れてしまう。荒れ放題の里山に多く見られるアズマネザサ(東根笹=アズマ地方の根笹)は、まさに破竹の勢い(破竹はアズマネザサではないが)で増えるが、日光を遮断されると枯れてしまう。
 ところが、孟宗竹は長大で、スダジイやマキ、モチ、ツバキ、タブなどの照葉樹林の樹冠を突き破って伸び、太陽の恩恵を受けるため、枯死することが無いのである。外来植物として、既存の植生を壊わす厄介な植物なのだ。根も浅く、普通の森に比べて保水力も低く有用な植物ではない。この際、新しい竹が増えないよう、ドンドン筍を食べ尽くして、守るべき森には生やさないことだ。特に、神社の杜(森)には生やしてはならない。
元々、日本人は、里山の自然を賢く利用し共存してきた。里山は人の手が加わることにより保たれた森だ。一旦、人が手を加え無くなれば、やがては極相林に変遷していく。神社の杜は、「不伐の森」として、余り手を加えられず、伐採されずに残されてきたから、極相林が多い。神社の野草や山菜も採取されなかったし、山百合なども残されてきた。雷神社の杜にあったエビネはどうも盗掘されて絶滅したかもしれない。だが、もしかしたら、ユキワリソウのように残っているかもしれない。花の時期になったら、探してみようと思う。
              (文責:雷神社宮司 嶋田正)

「伝説」は本当の出来ごとかも

貞吉の力石

雷神社の力石
「民話」を大別すると、「昔話」と「伝説」になる。
昔話は、「むかしむかし、あるところに、お爺さんとお婆さんがありました。」となる。「むかしむかし」とはいつのことで、「あるところ」は何処で、「お爺さんとお婆さん」は具体的には誰なのかはっきりしていない。これが昔話の特徴である。「桃太郎」や「こぶとり爺さん」「猿蟹合戦」などがその典型。
一方「伝説」は、いつ、何処で、誰が、何をして、どうなったか、はっきりしている。桃太郎と同じ「太郎」でも、「金太郎」は坂田金時をモデルにしている。誕生日は天暦10年(西暦956年)5月。父坂田蔵人が、坂田一族の内紛で殺害されたので、金太郎は足柄山に逃れて子供時代を過ごす。まさに、「マサカリ担いだ金太郎」の時代である。青年になり天延4年(西暦976年)3月21日(旧暦)に、足柄山にさしかかった源頼光にその立派な体と見目麗しい容姿を見染められ、家来に。後に頼光の四天王の一人になる。四天王は、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光。中でも渡辺綱は四天王のリーダーで文武に長けており、何かと頼りになる。困った時には「綱」に頼ればよい、と言うことになり、「困った時の頼みの綱」とは、このことから言われるようになった。西暦990年3月26日には丹波の大江山(京都府福知山市)で四天王で酒呑童子退治をした。西暦1012年12月15日、九州の賊を征伐に行く途中、岡山県勝央町で熱病にかかり死去。享年55歳。
とまあ、伝説ははっきりしていて、「半ば史実」のように語られる。昔話でも、浦島太郎のように「浦島子」として万葉集にも記述が見えたり、「竹取物語」のように時の帝や富士山の云われ(不死の山)などが出てきて、伝説に似たものもありはするが。
さて、雷神社の民話はこのホームページにも掲載しているが、「貞吉の力石」を一読願いたい。荒筋は、雷神社には力石が7個あったが、貞吉と言う男が持ち上げられなかった悔しさに、その石を埋めてしまう。氏子総出で探したが見つからない。以降、雷神社の力石は6個になってしまった、というものだ。
それでも、大きさに違う力石が6個もあるのは希少なので、平成17年に海上町の有形民俗文化財に指定された。その後、平成19年、木造の大鳥居の根本が腐朽して修繕をすることになった。基礎を作るために約1間四方の穴を掘ったのだが、掘った穴の縁に、丸い石が見えた。地表から約30cm位の深さである。オヤと思って表土を除くと、紛れも無く力石である。掘りあげて綺麗にすると、「雷 三十四メ」と彫ってある。まさに、「貞吉の力石」の民話どうりの力石が出てきてしまったのである。これにはビックリ仰天。伝説って本当なんだねぇ。
雷神社の力石は7個に戻ったが、現在は8個ある。それは御影の丸い力石が増えたからである。この石にも曰く因縁がある。戦後間もないころ、海上町のある建設業者が千葉の稲毛方面で仕事をした帰りに、そこにあった力石を1個持ち帰った。ところが以降余り良いことが無いので、返しに行ったら、余りの千葉の発展に石があった元の場所が分からなくなった。それで、雷神社で引き取ることになった次第。これも面白かろう。
              (文責:雷神社宮司 嶋田正)

桜とカタクリは同時に咲く

26.3.29カタクリ開花

コゴミ

ワラビ

河津桜

河津桜が3月始めに咲いた。河津町が、まだ苗木を外に出さない時代に、観光業の嶋田實氏が交渉の末に分けてもらい、神社に奉納したものである。多分、このあたりでは最も古いものの1本であろうか。
 次に咲いたのが「鶴巻桜」。本当の名前は知らないが、近くの鶴巻小学校の北門に昔からあって、早咲きの桜である。私の子供の頃には既にあったが、それから半世紀以上しても高さが3mくらいでほとんど変わらない。卒業式が近い3月半ばに、枝も見えないほどビッシリと咲くので印象深い。だから、敢えて「鶴巻桜」と勝手に私だけで命名している。このヒコ生えを株分けして、神社の鳥居の前に植えたものだ。
 そして、最後に陽光桜が咲いた。本日3月29日のことである。咲く時期は、ほぼソメイヨシノと同じと言ってよい。桜の開花はソメイヨシノで決めるのだが、この桜は面白い。全てのソメイヨシノの遺伝子は全く同じであるという。今、何白万本あるいは何千万本あるか知れないが、同じ木を元にして接ぎ木を繰り返して増殖したから、全てが同じ遺伝子なのである。同じ遺伝子なのだから、桜前線の基準にするのに好都合なのだ。。ソメイヨシノはテグス病が多発するとか、木の寿命が短いなどの欠点がある。最盛期が百年以下の短命な桜なのだ。昔から桜と言えば「山桜」のことであったし、桜の巨木・銘木には寿命の短いソメイヨシノは1本も無い。ただ、花の咲き方や花色などの鮮やかさに優れているから、突出して多く植樹されている。
 さて、経験則で言うのだが、桜とカタクリはほぼ同じ時期に咲くのではないか。雷神社のカタクリと陽光桜は、今年は3月29日に双方とも開花した(写真)。見事な一致である。で、掲載した。
 「雷神社の森」は、市の天然記念物です。従って、やたらに植物を植えたり切ったりは出来ない。鶴巻桜や河津、陽光も、神社の駐車場や鳥居の外に植えてある。一方、森の中には、カタクリやワラビ、ヤブレガサ、エビネ、フユノハナワラビ、トリカブトまで自生している。森の中にヤマユリまで沢山ある。おいおい写真を立ち上げたい。
 今回は、カタクリ、ワラビ、クサソテツ(山菜名:コゴミ)を載せた。ちなみに、これらを採取しにくる人がいる。ワラビ採り、フキ採りには毎年来る人もいる。昔から、「寺の物は良いが神社の物は駄目」と言って、神社の木は例え巨木・銘木でも、業者は買わないとか、山菜も採らない。神域の物を持ち出すのは禁忌とされてきた。故に、神社の森は「不伐の森」として、長く守られている。知らないというのは、気の毒というか愚かと言うか、
最近、ワラビ採りやメジロ(鳥)の捕獲などに来る人があることに、驚きを禁じ得ない。
何で、そんな当然の常識が、知られなくなってしまったのだろうか。もしかしたら、日本の教育で戦後欠落した「宗教教育」にあるのかな?それは全く分からないが、オウム真理教などの、どう見ても変な宗教モドキに、簡単に洗脳されてしまう優秀な若者は、宗教の根源を知らないし、免疫も無い。そんなの日本固有の特殊な傾向で、世界でも特異。なんとかせねば。              (文責:雷神社宮司 嶋田正)

宮司だってつぶやきたくなるときもある

 神職になったのは昭和47年4月だから、42年も前。雷神社宮司になったのは昭和61年3月だから、これももう28年前。あっという間のような気がする。
 最近は、高卒で國學院大學に入学し、神職の資格を取る人も結構いるが、昔から、親が体調を悪くしたり逝去後に講習で神職の資格を取り、後を継ぐケースが多い。神職として生計を立てられるのは、極々一部の特別な神社であって、大多数の神職は別の職業をもって糊口を凌いでいる。だから、社家(神職の家)に生まれても、普通に進学・就職して、必要に迫られてから神職の資格を講習で取るのである。講習と言っても、最初は30日の講習で最下位の資格を取ることから始まる。一旦就職した人が、30日も休暇を貰うのは至難の業。公務員とか教職員が神職や僧侶に多いのはそのせいかもしれない。まぁ、「神主丸儲け」と言う言葉が無いくらいだから、生業を他に求めなければ仕方が無いのである。
 そんな中で、私の年齢で経験40年以上は珍しい部類。まあ、宮司になるまでは、先代が社務をやっていて、私は余り関係ない生活を送っていた訳ではあるが……。それでも宮司になってからは、家内や息子の協力を得て、旅行や病気の時を除いて、ほぼ毎日神社掃除をし、20年に1回の御神幸祭も2回斎行した。2年前に生業を退職し、神職中心の生活になり、ほぼ毎日、神社に詰めている。詰めてみると、結構いろいろな人が参詣にみえて、意外に話が弾むこともある。
 目下の問題は、自分が詰めている場所が無いことである。社務所はあるが、それは集会所のようなもので、拝殿から離れているから、なかなか来訪者とのコミュニケーションをとりずらい。そんなこともあって、良い神社は拝殿に御神札の授与所や祈祷の受付所が併設され、神職などが居る。神職といつでも顔が合わせられることは良いことである。例え用事が無くても、迎えてくれる人がいる神社の社頭は栄える。それが人の心理であろう。そんな訳で、とりあえず、拝殿の隅に机と椅子と本箱を持込んだ。私に用事のある人は、最近は自宅ではなく、神社に見えて、そこで話をすることが増えてきた。僧侶は「住職」というくらいだから、お寺に住んでいることが多い。だが、神職が神社に住んでいることは本当に稀で、せいぜい隣地に住宅を構えているくらいである。なるべく、神社に居ることで、氏子崇敬者に接していたいものだ。
 ただ、拝殿内では、参詣者に見えないことが困る。「神主がいる」ことが分かる、それが大事なのである。そこで、「神職が拝殿ま又は境内にいます」の看板を立てたり、呼び鈴のボタンを設置してはいるが、いまひとつしっくりしない。「見える」ことが大事なんだ。この際、自分の退職金を使ってでも、拝殿前に授与所を兼ねた待機場所を増設したいのだが、3年以上前から発案しているが、これが大方の理解を得るには至っていない。参拝者が雨に濡れないよう、庇も伸ばしたい。まあ、次代に引き継ぐまでには、多分、多少の時間はあると思うから、それまでに、地道に努力していくしかないか。
 神主だって呟きたいことはある。そんな訳だから、読まれるか分からないが、ブツブツ言うことにした。 (*^_^*)
 (文責:雷神社宮司 嶋田正)